カテゴリ
Craole 『蔵織』 くらおり
〒951-8062 新潟市中央区西堀前通1番町700番地
TEL・FAX 025-211-8080 http://www.craole.jp/ リンク ギャラリー蔵織 ロビン アート スタジオ 侘び・寂び・萌え・きれ ロビン アート スタジオ・良きものとゆっくりと 新潟ハイカラ文庫 にいがた文明開化ハイカラ館 忘れてはいけない みなとまちの歴史 神崎のナナメ読み hickory03travelers 浜五 Hamago izumi glass studio aSh:Gallery フォロー中のブログ
明日のさかい・・参 《... ヒッコリースリートラベラ... コンチェルト2号感動の毎日 『あたかみのる』のジャズ... FOTO CYCHEDE... 自転車 昼ごはん探偵団 ... 新潟県政記念館 友の会 Wabi・Sabi・Mo... にいがた文明開化ハイカラ館 ロビン アート スタジオ... 以前の記事
2016年 08月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 最新のトラックバック
検索
その他のジャンル
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
山崎修・雑木の雑器展
―漆・木・器― 好評開催中、7月23日(火)までやっています。 山崎修さんは6年前に新潟県阿賀町(旧三川村)に南木曽轆轤(なぎそろくろ)をすえて、『工房るるの小屋』を開設しました。 東北大学理学部・生物学科を卒業後、偶然出会った創作木器のあたたかさに魅了されます。その後、一念発起し、木器工芸技術を木曾御嶽山の麓で新たに学びなおしました。 その修了作品が大阪工芸展・産業工芸品部門会長賞を受けた異色作家です。 以後、木地職人としての技術を高めた山崎さんは、育ちのよい、選りすぐりの木材よりも、伐採処分される雑木をなんとか器に生かしたいと考えました。 木も人間と同じで、風雪に反発し、曲がって生きてきたもの、斜面や日陰で育ったもの、菌や虫に侵されたもの、そういう木々たちの痕跡は、『木の癖』として残ります。それらを人間の側からの発想で、選別、排除するのではなく、森の視点、森の歴史を大切にし、あえて『木の癖』を生かした器作りに挑戦しています。 人間ではウマレツキとか、ソダチとか、トラウマとか、ヤマイとかいわれて分類されていますが、あちら側ではそういう木々たちの分類はありません。 あえて人間の言葉でいうならば、”モリ”ということば一つが全てです。 森の生態系のバランスを規範とし、誠実に雑木の音色に寄り添い続ける山崎さんの作品は本物のあたたかさに満ちています。 この山村工房での生活が、理学部・生物学科で学んだ科学的・知識を次第にリアルなものに変換させてゆきます。 冬ごもりの熊、雪虫の飛行、葦の角ぐみ、オオルリの渡り、ハリガネ虫の寄生、ツツドリの托卵、腐肉食のザトウムシ、粘菌の爆発から、はるかかなたの星々の運行まで、知識はろくろの回転が進むにつれて、だんだん詩(うた)に変わってきました。 そうかといって、山崎さんは霞を食っている山奥の仙人のような人ではありません。 工房のろくろで作った木の器を蜜蝋や漆で仕上げ、時々、町へ出て売りに行きます。 まるで、おとぎ話のような生活です。暖は薪ストーブ、夏は蚊帳で超低炭素生活ですが、動く軽自動車はあります。 山々が身近に見える『工房るるの小屋』は阿賀野川沿いの国道から少し入った集落にあり、近くに高速道路の高架橋も見えます。走る車の音や火急のサイレン音も聞こえてくる人里です。 けれども、工房の裏の大きな柿の木には、熊の爪あとが深く、くっきりと残っていて、月輪熊(ツキノワグマ)は赤く熟れた柿の実を食べにやってきています。 いいかえると、寝室の壁の真裏で、腹をすかせた本州最大の哺乳類、月輪熊が徘徊していて、近くの国道の車の音も聞こえている、という構図です。 そこは、まぎれもなく”現代の境界”で、神話の霧が乱れる結界です。 熊の眉間を射ぬく鉄器を持った我々人間は、それ以来、その鉄器の力を飛躍的に向上させ、その上、彼らをおとしめる策を重ねて君臨してきました。 いまだ神話を生きる三川の熊たちは、決して我々人間をあざむくことはありません。彼らの限界距離を侵せば、熊たちは我々人間を『正しく』殺してくれます。 我々人間はぞんざいにも“圧倒的火器”で、熊たちの境界線を踏み消して、そんなものは始めからなかったのだ、といいだし始めました。 そこでは神話の言葉は混乱し、その結界から世界のバランスは歪み始めました。 山崎さんはそんな”現代の境界”の狭間に何年も身を置いて、その歪みを一つ一つ繕いながら、この世の本当のあたたかさを追求しています。 また、山崎さんは大学卒業後、長編記録映画『阿賀に生きる』(1992年16mmフイルム、佐藤真監督作品2007年没)の撮影助手を手掛けました。 その完成後、しばらくして木器制作を学び、新潟に戻ってきて、その撮影拠点であった古い小さな民家『阿賀の家』(事務所、宿泊、器材置場)を、今の『工房るるの小屋』としました。 映画『阿賀に生きる』は新潟水俣病訴訟に関わりながら、単なるプロパガンダに陥らず、阿賀野川水域に生きる人々の生き生きとした姿が描き出されていて秀逸な作品です。2時間はあっという間で、もっと、見たいと思っているところでフイルムは終わってしまいます。 当時の数千万円の資金は、監督の熱いビジョンと実行委員の血の滲むような努力や、企業のひも付きをおそれて、無償の個人カンパ(1400人)で成り立っていました。一人のアーチストの心の発露とビジョンが出発です。 それは、始めにお金ありきの、税金で作り上げた『水と土の芸術祭』の対極にあります。現代的という言葉をあやつりながら、実は古いシステムにあぐらをかき、アートとエコの名のもとで選別と分配を司る人たち、それはどんなに美しい言葉や写真で飾っても、『工房るるの小屋』の境界を見失っている人たちか、“圧倒的火器”の側の人たちです。 山崎修さんはその境界を体現しつつ、原点からぶれることなく創作活動に励んでいます。 昔の船は川を下ったら、流れに逆らって、川上まで、人々が船を曳いていました。 今は、鉄道が走り、発電ダムができ、車は楽々と山を越えることができます。 熊の眉間を射ぬく鉄器を持ってから、久しく時がたちました。 そして、ついに我々人間は、熊と森を一瞬で気化することができる熱線を持ってしまいました。 高慢な君臨は、それらを肥大化して、もてあまし、自らのストレスを膨張させています。 我々人間は熊に『正しく』殺されることすらできなくなってしまったのでしょうか。 2011年3月、冬ごもりで難を逃れた熊の親子は、5月、ミズナラの若葉の茂るころ、穴から這い出して野山を移動しました。 木々の若葉を洗った雨水はゆっくりと山をおり、阿賀野川に合流します。 姿も見えず、音も聞こえぬ “核種” が、水にのり、谷の風にのってやってきました。 山崎さんのあたたかな木の器は、それらとどう拮抗してゆくのでしょうか。 追記、 驚くことに、『工房るるの小屋』の玄関に、27才の私が東京から戻り、ロビンアートスタジオを始めて、最初に手がけた喫茶店の吊看板があった。 40年前に作った行燈看板である!! 撮影拠点『阿賀の家』の玄関と小屋の間の外灯として使われていたという。誰が外して持ってきてくれたのだろうか。(羽生さんたちだった) 『Coffee room びいどろ』といって、オギノ通(現在の荻野博士公園の向かい)の喫茶店の軒先に吊るした看板である。7坪の喫茶室に、採算を考えて24席を無理やり配置した。向かいの荻野博士の木造洋館もまだ健在だった。 頭の切れる、二人ママさんがいて、(ママさんなどというと怒られる) 間章と吉沢元治と小杉武久などがぐちゃぐちゃと出入りしていて、河合隼雄とも始めて話したところでもある。 小杉武久を除いて皆鬼門に入った。 懐かしい。なんという縁だ。 (注、二人ママさんはまだ鬼門に入ってはいない)
by craole
| 2013-07-10 04:58
| 蔵織展示のこと
|
ファン申請 |
||